2014年5月14日水曜日

貨幣数量説


タイトルだけで難しい観がありますが、フリードマンは金さえ刷っていればいい、インフレターゲットを定めていればいい、というだけだったと思います。

ただ前提として市場化とか、自由化があります。

ここでケインズがどう入ってくるのかということですが、ケインズ=公共投資でいえば、マネーサプライの調整自体結局そのセクターにとっての公共投資なのだ、ということかと思います。

もともとフリードマンは公共投資は官僚化をうむので、だめだいうことだった。教育も民営化しろといっていた。

ドラッカーは貨幣を調整できる考えそのものが過ちだとした。

 貨幣の発行主体が国家であり、独自のセクターによる制度だとすれば、結局公共投資と変わらなくなる。

ここに批判が入るのですが、日本の問題は少子化でそこに手当てすることが公共投資だという説は聞かれます。

 で、民営化=資本化なのかという問題が小泉政権時に提起されたと思いますが、結局これは共産主義の実験の批判、国家による強制撤収=平等な分配、がどうなのかという問題につながります。

ウクライナでは農家が野原一面広大な土地をわけあたえられ、これはよいことではないないのかという議論がありますが、結局農薬の過大な使用で土地がだめになったといいます。

資本主義を超克する実験、という場合土地の問題は主要だとおもいますが、もうすこしのべてみます。

城南信金の理事長は脱原発=脱産業文明、をかかげていますが、信金の

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